関塾ひらく「インタビュー」 各界で活躍する著名人に教育や経営をテーマとしたお話を伺いました。
スポーツプロデューーサー 三屋 裕子氏
コンプレックスを強みに変える人の育て方
 
Profile
1958年福井県生まれ。筑波大学大学院修士課程(コーチ学専攻)修了。八王子実践高校から筑波大学に進み、ユニバーシアードに3回出場。1979 年に全日本チーム入り。 1981年日立に入社すると、翌年からの日本リーグ三連覇に貢献した。ロサンゼルス五輪では銅メダルを獲得。現役引退後は高校教員に転身、母校の筑波大で非常勤講師を務めるなど教壇に立つ。経営者として女性下着販売会社の代表取締役社長も務めた。現在は(財)日本バレーボール協会理事としてバレーの普及活動にあたるほか、テレビ番組のコメンテーターとしても活躍している。著書は「あなたの打ちやすいボールを送りたい」(かんき出版)、「三屋裕子の元気エッセンス」(ネスコ)ほか多数。



バレーボール選手として全日本チームで活躍するかたわら、教師になる目標をあきらめず現役引退後に転身、さらに会社経営にも挑戦してきた三屋さん。そのバイタリティーの源は人生の転機でもらった恩師の言葉だったといいます。これまでの歩みを教育者、経営者としての視点から語ってくださいました。

人と違う自分が嫌いだった


小学生の頃、実は自分のことが嫌いでした。卒業時にすでに170センチあり、背の高さで仲間はずれにされたこともあります。 
そんな人と違う自分が嫌だった私ですが、中学校に入ったときに一人の先生に出会いました。先生は「人間考え方一つ」とおっしゃり、「身長が高いのは他の人にない能力なのだから、それを生かして、バレーボールをやらないか」と誘ってくださったのです。その言葉で人生が変わりました。
中学二年生のとき、ミュンヘンオリンピックで日本のバレーボールは男子が金メダル、女子は銀メダルを取りました。「どうやったら、ああなれるんだろう」と必死になってバレー雑誌を見ると、高校で全国大会に出場し、スカウトされないといけないとわかったのです。でも、当時の私はレギュラーにもなっていません。しかも、借り出されて出場した陸上のほうが成績が良く、走り高跳びと走り幅跳びは、県大会三年連続で優勝したほどでした。
三年の夏の全国大会はなんとか出場したものの、あっという間に敗退。ところが、参加選手のなかで一番背が高く、陸上の成績が良かったので雑誌にインタビューが掲載され、いくつかの高校からオファーをいただいたのです。そのなかに、当時、高校日本一だった八王子実践高校がありました。私は「どうせバレーをやるなら日本一に」と思いましたが、周りは大反対。毎日悩んで、最後はバレーをやる結論を出しました。
結論は自分で決めました。自分で決めないとつらいとき、苦しいときに負けてしまうなと考えたからです。親を説得して、なかば強引に東京へ出てきました。
しかし、高校に入学して、一週間でものすごく後悔しました。親が恋しかったんです。それに、寮生活の洗濯や食事も大きな負担でした。それでこれまでは親がかりで勉強とバレーだけやれる恵まれた環境にあったんだと気づかされたのです。


大変だった教師の道とバレーの両立

手に職をつけさせようという親の方針で、男女の差がなく働ける仕事である教師を目指していました。
進学は「五輪を諦めるのとイコール」と実業団の人たちには言われましたが、「だったら挑戦してみたい」と、そこで逆に闘争心がわきました。
両立は、セカンドキャリアの準備でもあったんです。まずはバレーボール選手になると決めていましたが、細々とでもセカンドキャリアをつないでおかないと、いざその時にものすごく難しいですから。企業も同じで、成長期に次の成長ラインを描いておかないといけません。業績が下がってきたら、その対策が優先になってしまいます。
バレーと大学の両立は大変でした。大学三年になると、大学生の五輪であるユニバーシアードのメキシコ大会にエースとして出場し、銀メダルを獲得。帰国後、日本のナショナルチーム(全日本)に入りました。でも、教育実習に行くための単位を取らなければならず、合宿している大阪から週二日だけ戻り、講義に出ていました。
しかし、アジア選手権のためのキューバ遠征で大けがをして帰国。全治六ヶ月の足首の脱臼と骨折でした。足がゾウの足のように腫れましたが、五輪に行きたい気持ちが強くて、二ヶ月で練習を再開。代表には選ばれましたが、モスクワ五輪はボイコット。必死の思いでやってきたのに、つくづくついてないなと思いました。
その後、教育実習を経て、教員免許を取得。私立の学校の就職活動をしていました。でも、全日本で一度は世界大会に出てみたくて、親には「あと二年だけ」とお願いし、私の持ち味を引き出す攻撃型のチームだった日立に入りました。
それでも、教員採用試験の勉強は続けていました。二年目は東京都の採用試験で二次に進むことに。世界大会の直前で、遠征先のブラジルから帰国して受験しました。しかし三次の面接で全日本を辞める決心ができていないのに気づいたんです。合格しましたが、今しかできないことはどちらかを考えて、親に土下座し、ロサンゼルス五輪まで待ってもらいました。


人生の転機での恩師の言葉が糧に

バレーを始めるきっかけをつくってくださった中学の先生はもちろん、ありがたいことに、私には人生の転機に良いことを言ってくださる人が必ずいます。初めてユニバーシアードのメンバーに選ばれた大学一年のころ、大学の練習が物足りなく感じるようになりました。そんなとき、男女バレーボール部の部長が猿の木登りのたとえ話をしてくれて、ハッとしたんです。
「大きな木の下に猿が何匹かいるなかで、一匹が上に登っていく。下にいる仲間たちは、どこを見ているかわかるか。お尻を見ているんだ。登っていく者は、自分の一番汚いところをみんなに見せていると絶対に忘れるな」って。確かに、私は「何でみんなもっとうまくならないんだろう」と思い、良い態度ではありませんでした。もっと謙虚にならないといけないなと思いました。
教員になったのは、五輪が終わってすぐの秋です。私はたくさんの指導者の深い愛情ある教えの中で育ってきましたが、その恩は直接返せません。振り返ると「人と違っていい」と教えられてきた気がします。教える立場になってからは一人ひとりの個性とターニングポイントにあった指導を大事にしています。
私は教える子たちの名前を呼ぶことをモットーにしています。その人の能力を伸ばしていきたいので、あまり指示の言葉は使いません。「どうしたらいいと思う?」って聞くんです。私は頭ごなしにものを言われる指導が苦痛でした。だから、問いかけてその人の中で答えを見つけてほしいと思っています。


健康で自立した人生のお手伝いをしたい

今後の活動として、健康で自立した人生を送るお手伝いをしていきたいと考えています。まだ始めたばかりですが、私がプロデュースしている「健康寺子屋」では、介護や介助を受けずに生活するために、気軽にできるけれど質が高い運動を提案しています。
いくら知識やお金があっても、健康でなければ、それは無駄になってしまいます。夢や目標を追うためにも、健康でいることはとても大事なこと。広い意味で自分の健康は世の中への貢献になるのです。
経営の基本は「人・モノ・カネ」といわれますが、関塾を経営されている皆さんにはぜひ従業員の方でも、教室の子どもたちでも、自分の思いをつなぐ人を育てていくことを大事にしてほしいですね。人間は最終的に人を残して、人に思いをつないでいくのが、人間が人間たる一番崇高な行動なんだろうと思います。

一覧
No.155
No.154
No.153
No.152
No.151
No.150
No.149
No.148
No.147
No.146
No.145
No.144
No.143
No.142
No.141
No.140
No.139
No.138
No.137
No.136
No.135
No.134
No.133
No.132
No.131
No.130
No.129
No.128
No.127
No.126
No.125
No.124
No.123
No.122
No.121
No.120
No.119
No.118
No.117
No.116-2
No.116-1
No.115-2
No.115-1
No.114-1
No.113-2
No.113-1
Dr.関塾