関塾ひらく「インタビュー」 各界で活躍する著名人に教育や経営をテーマとしたお話を伺いました。
産経新聞社 専務取締役 大阪代表 齋藤 勉氏
ぶれない座標軸を胸に 大局的に世界をとらえる視点を
 

Profile 産経新聞社専務取締役大阪代表齋藤勉さんに聞く 1949年埼玉県生まれ。東京外国語大学卒業後、産経新聞社に入社。
テヘラン特派員、モスクワ支局長、ワシントン支局長などを経て、取 締役編集局長、常務取締役編集局長、専務取締役サンケイスポーツ・ 夕刊フジ担当を歴任。2013年より現職。特派員として通算9年ソ連・ ロシアに在住、一連のソ連・東欧報道でボーン・上田記念国際記者賞 (1989年)、ソ連崩壊のスクープで日本新聞協会賞(1990年)受賞。


産経新聞の神話シリーズ 「海道東征をゆく 神武さまの国造り」
『たった一人の熱狂』増補完全版


産経新聞で昨年連載された「海道東征をゆく」。 『古事記』に記された建国神話「神武東征」をもと にしたもので、日本の成り立ち、そして日本人の アイデンティティーを見つめ直す企画として好 評を博し「、海道東征」コンサートも開催しました。


ソ連共産党、独裁を放棄へ―― 。 世界に先駆けて歴史的スクープに成功し、時代の転換期を目の当たりにした齋藤勉氏。記者として何を見つめ、何を得たのか。 今年は、ソ連崩壊からちょうど 25 年。モスクワでの燃えるような日々、そして新聞の未来についても語っていただきました。

■ ソ連への強い思い

   高校時代から海外で働くことに漠然 と興味を持っていたのですが、そう考 えるようになったのには、父親の死が 関係していると思います。父はシベリア 抑留を経験し、生きて帰国できたもの の、おそらくそれが原因で、私が 10 歳の ときに他界しました。ですから、ロシア に対する憎しみとも興味ともつかない 思いがずっと自分のなかに存在し続け
ていたのでしょう。外国語大学でロシア 語を専攻。とはいえ、学生時代は野球に 明け暮れ、勉強はろくにしませんでし たから「、そんなやつは新聞社くらいし か就職できないぞ」といわれていました。 当時の新聞社はそういうイメージだっ たんですね。英語に比べてロシア語は 話せる人が少なく倍率が低いからチャ ンスだと聞き、新聞社のうち一番自分 に合いそうだと選んだのが、産経新聞 社でした。

■戦乱のイランから 運命のモスクワへ

 1984年9月。私は特派員として イラン・イラク戦争の最前線に派遣さ れます。それまでも国内で凶悪犯罪を 担当していたので、度胸はある方でし たが、命の危険を感じた経験が一度だ け。各国の特派員がイラン外務省のト ラックで前線取材に連れていかれま した。その帰路、突如イラクのヘリコプ
ターから銃撃を受けたんです。全員ト ラックの下に避難しましたが、私はま さに頭かくして尻隠さずの状態。奇跡 的に負傷しなかったものの、あの時は 死を覚悟しました。
  奇しくもイラクがテヘラン空爆を始 めた1985年3月、ゴルバチョフが書 記長に就任し、その2年後の1987 年4月 26 日、私は念願だったモスクワ に降り立ちました。チェルノブイリ原 子力発電所事故が起きたちょうど一年後を選んだのは、この日を絶対に忘れ たくないと思っていたからです。


■ 帝国最後の日々を追った 熱い5年3ヶ月

  当時のモスクワは、ゴルバチョフによ るペレストロイカが始まってはいたも のの、特派員としての自由は制限されて いました。特に産経新聞は反共産主義 的だとして、KGBから目を付けられて いて、なかでも私は札付きの記者。掲載 された記事はすべて日本のソ連大使館 で翻訳されてモスクワのKGBに送ら れますから、批判的な記事を書けばす ぐに分かるわけです。
  モスクワの街中ではバーどころか、人 が集まるベンチさえ禁止されていまし たから、飲みに行くにも国営ホテルの バーくらいしかありません。人と会おう ものなら、待ち合わせの電話は盗聴さ
れ、店内にはこちらを伺う人影がある。 単身赴任で暮らしていたアパートに帰 ると家具の位置が入れ替わっている、ア パートの前に駐車した支局車のタイヤ がすべてパンクさせられている。そんな 嫌がらせは日常茶飯事でした。
  その頃、ソ連では「特ダネは危険だ」と 言われていました。なぜなら、ソ連当局 が西側に流す第一次情報には、必ず政 治的な謀略が隠されているから。産経 新聞の特派員は私一人だったので、国外 追放を一番恐れていました。
 
事情が変わり始めたのは翌年から です。ペレストロイカの重点施策の一つ であったグラスノスチ(情報公開)の結 果、新聞や雑誌が、まるで雨後の筍のよ うに増え始めました。情報は乱立し、政 府による記者会見は増え、街では毎日 のようにさまざまなデモが行われる。ど れだけ原稿を書いたか分からなくなる ほど、とにかく書いては日本に送り続け ました。
  そんな騒然とした空気のなかで「、今 なら大きなネタが書ける」と確信した のです。街にはバーもでき、私は毎晩 ウォッカを飲み歩いては、政府の役人 やジャーナリスト、各分野のキーパーソ ンとの人脈を広げていました。私をス クープへと導いてくれたものこそ、この “ウォッカ仲間”でした。
 
1990年1月、あるパーティーに 出席していた私に、ウォッカ仲間の一人 が言いました「。こんなところにいてい いのか、動くぞ」と。そして、ソ連共産党 が今後について記したある重大な文書
を持つ人間を探せと言う。私は人脈を 片っ端から当たり、文書を持つ人物を とうとう探し当てたんです。さっそく 本人を訪ねたところ「、文書を渡すわけ にはいかない。ポイントを話すから書き とめろ」と言われました。最初の言葉は 「ソ連共産党は、独裁を放棄する」。私は、 耳を疑いながらも、必死に書き続けま した。夕方、興奮のあまり道を間違えな がら帰宅。一気に書き上げた原稿は、幸 運にも世界の新聞社を出し抜き、翌朝 の一面を飾りました。
 
多くの忘れがたい出来事のなかで も印象深いのが、クーデター直後の 1991年8月 21 日夜のこと。ジェルジ ンスキー広場に民衆が集まり、恐怖と 憎悪の象徴だったKGBの創設者ジェ ルジンスキー像を引き倒そうとしてい る、KGB解体の現場を目の当たりにし たことです。私は原稿も東京の外信部 に任せ、この一部始終を決して見逃すま いと、人々の熱狂のなか、固唾を呑んで 見守り続けました。
  人々は、ソ連製のクレーン車で持ち上 がらないと分かると、アメリカ大使館か ら借りたクレーン車で吊るし上げ、約8 時間後、ついに像を倒しました。人々の 大歓声、広場で打ち上げられる花火、そ の傍らには灯の消えたKGB本部のビ ル……。今思い出しても涙が出るほど、 感慨深い光景でした。
 
その後私は、新生ロシアの誕生を見 届けて、1992年夏に帰国。熱に浮か され続けたような激動の5年3ヶ月が 終わりました。

■ 強い好奇心が 記者の原動力となる

  いつの時代も、記者に求められる一番 重要な資質は「好奇心」。そして「体力」 です。それから大局的、総合的な視点。 私は幸いにも、二極化した世界の片側 で歴史の転換期を過ごし、そこから世 界を見る好機に恵まれました。当初は 自分の立ち位置が分からず、原稿を書 くにも戸惑いがありましたが、ソ連の ことを考え続け、集中的に書き続ける うちに大局が見えてきたように思いま す。自分なりの世界観、いわば座標軸が でき、場所や時代が変わってもぶれるこ とはありません。取材力とは、人間力で す。真っ向から取材対象と向き合える か。これはどの職業にも教育にも言え ることだと思いますが、ぶれない座標軸 を持ち、多角的に物事を捉える視点が 重要だと思います。
 
新聞は、そうした視点を養うもので もあります。今、新聞は厳しい時代を迎 えていますが、やはり子どものころから 読む習慣を持ってほしい。新聞を通し て読めば、自然と物事の軽重が分かる 構成になっており、難しい話も読み続 ければ理解できるようになります。
 
大げさに聞こえるかもしれません が、新聞の力は、国力につながると考え ています。私たちには、世論を作り出し、 牽引するような深いコンテンツを作り 続ける責務があります。そして、そのた めの新たな挑戦を始めることが、今の 私の使命だと思っています。



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